私が、今住んでいる古いアパートで、初めてヤツの存在を認識したのは、引っ越してきて数ヶ月が経った、夏の夜のことでした。シャワーを浴びようと、脱衣所の電気をつけた瞬間、白い床の上を、黒くて小さな、米粒ほどの虫が、ササッと走り抜けていったのです。「なんだろう?」と思ったものの、その時は、特に気に留めませんでした。それが、後に続く長い悪夢の、ほんの序章に過ぎないとも知らずに。数日後、今度はキッチンで、同じ虫を二匹、同時に見つけました。さすがに不審に思い、スマートフォンで調べた結果、その正体が「チャバネ-ゴキブリの幼虫」であることを知りました。そして、その記事に書かれていた「一匹見つけたら、百匹はいると思え」という、絶望的な一文に、私の血の気は引きました。その日から、私の生活は一変しました。夜、キッチンに行くのが怖くなり、電気をつけるたびに、床や壁に黒い影を探してしまう。食事をしていても、どこかから現れるのではないかと、常に怯えている。安らげるはずの自分の城が、いつの間にか、敵地に変わってしまったのです。私は、市販の殺虫剤を買い集め、ありとあらゆる対策を試しました。ベイト剤を置き、燻煙剤を焚き、毎日、床に這いつくばって掃除をしました。しかし、敵の数は、減るどころか、日を追うごとに増えていくようにさえ感じられました。成虫の姿も、ちらほらと見かけるようになりました。私の精神は、限界でした。そして、ある日、隣の部屋の住人と廊下で顔を合わせた時、思い切って尋ねてみました。「あの、すみません。最近、部屋で、茶色い小さいゴキブリ、見かけませんか?」。すると、隣人は、待ってましたとばかりに、顔をしかめて言いました。「出るなんてもんじゃないですよ!うちはもう、ノイローゼになりそうです!」。その言葉を聞いて、私は悟りました。この戦いは、もはや私一人の部屋の問題ではない。このアパート全体が、すでに汚染されているのだと。すぐに、私は大家さんに連絡を取り、建物全体での専門業者による一斉駆除を、強く要請したのでした。